シャンタル・アケルマン『私、君、彼、彼女』における君=彼について

シャンタル・アケルマン監督による1974年作『私、君、彼、彼女』について。

見る / 見られること

3パートに分かれた映画。1パート目の最後で、主人公がレッドライトストリート(ヨーロッパの風俗街)のような一面がガラス張りになった1階の部屋にいたことがわかる。段々と裸になる時間の増えていく主人公はこのパートでは一方的に見られる側へと回っていく。

次のパートで主人公はトラックの運転手である男を見る側に回る。主人公の一人語りは消えていき、男の一人語りが始まる。そして、主人公に抜かせる男のみをカメラが映す。男を見る主人公の姿がひたすら映される。

最後のパートでは主人公と昔関係性があっただろう女の2人が互いに見る / 見られるの関係性になり、カメラも2人両方を映す。

主人公は1パート目で自分への視線に気づき、2パート目では自分からの視線を獲得する。そして、最後は見つめ、かつ見つめられるという関係性へと至る。ここで、相互に見つめ合うことができるのは女性のみであり、男性は1パート目では主人公を一方的に見る存在であり、2パート目では一方的に見させる存在となっている。

観客との関係性

同時に、ここで見る側にいるのは観客(おそらく男性)であり、タイトルで示される "君" であり "彼" である。1パート目では見られる側として、観客は窓から覗き見るように主人公を見る。2パート目では主人公が見る側へと回り、その観客を真っ直ぐ見つめ返す。そして、最後は主人公の女性同士のセックスを観客が見せつけられるという構成になっている。

さらに、この監督特有のスクリーンに縛り付けられてることを利用した攻撃的な退屈さがこの映画では特に際立っており、セックスシーンはこれくらいで終わるだろうと思ってからその数倍の長さで続く。この映画は、見る側への見られる側からの復讐のようなものにもなっている。

意味のない運動

ひたすら意味のない運動が繰り返される映画となっていて、1パート目では主人公は家具を塗った次の日に違う色に塗り直し、マットレスを上げた次の日にそれを取り消して下げ、自分の心の内を書いた同じ文章を何回も書いてまた消していく。そして、2パート目3パート目で行われる運動も一回きりのもので意味がないものとしておかれる。

ただ、1パート目で何度も書かれては消された文章の中に最後には消されずに残ったものがあり、そして家具の配置が何度も変えられた結果マットレスとこぼれた砂糖のうちの少しが残るように、その意味のない運動を繰り返した先、作られては削り取られる過程の先に何か大切に見えるもの、感触みたいなものが残るような感覚がある。そして、その何かが残ったような感覚が、これからもう会うことのない女性の家を後にする感覚と重ね合わされて終わる。

感想 / レビュー

この無意味と思える運動の繰り返し、その先に何かが残った感触のみがあるような感覚がかなり肯定的なものに感じられる。そういう意味では非常に美しい映画だと思う。見る側を攻撃すると同時に見られる側を肯定するような感覚。

作品詳細

  • 監督:シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman)
  • タイトル:私、君、彼、彼女(Je, tu, il, elle)
  • 製作:1974年 フランス・ベルギー