シャンタル・アケルマン『ブリュッセル 1080コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』における生活空間の崩壊

シャンタル・アケルマンによる1975年作『ブリュッセル 1080コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』について。

アトラクションとしての映画

ジャンヌ・ディエルマンは、夫と死別し、娼婦として働きながら息子を育てており、タイトルである「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」はジャンヌの住むアパートメントの住所を指したものである。一地点をピン留めするようなタイトルの通り、ジャンヌはそのアパートメントを中心とした生活圏、そしてその生活のルーティンから逃れられない。カメラはジャンヌの周囲に固定されており、3日間に渡ってその生活を映し続ける。

その固定カメラから撮られたジャンヌの日常映像は盗撮映像のようにも見えるが、その映像は意図的な長回しと意図的な省略によって接合されている。つまり、観客は特権的な立場からそのジャンヌの生活を覗き見るのではなく、監督によって見る対象とその長さを一方的に決められた上で、半ば無理矢理その生活を覗き見させられる。映画に収められたその生活音の大きさを考えると、覗き見というよりも体験させられるという言い方の方が正しいのかもしれない。観客はカメラと同様にジャンヌの周囲に動けないように固定され、その生活を禁欲的に見続けさせられる。

期待と外圧

ジャンヌは戦争によって青春時代を奪われており、死別した夫との結婚は叔母との生活から逃げるためのものであったことがわかる。ジャンヌが望んで家庭を持ったのかは明言されないが、おそらく望んでいなかっただろう。「青春時代は嵐であった。思想の実る秋にある今も、そのときに空いた穴を埋めている」というような詩が朗読されるが、それはジャンヌの置かれた状況を象徴するものとなっており、ここで嵐は戦争であり、穴を埋めることは家事であり、娼婦としての労働である。空けられた穴を埋めることにジャンヌの人生は費やされていくが、その穴はジャンヌの青春時代によってではなく、他者・外部によって空けられたものである。

ジャンヌにはカナダに住む妹がおり、妹からの手紙やプレゼントが変化なく反復される生活における変化であり楽しみのようになっている。しかし、1日目に読み上げられるその手紙は再婚を勧めるものとなっており、それは望んだわけではない家庭に囚われたジャンヌにとって重しとなる。ジャンヌは2日目3日目にもその返事を書けないままでいる。同時に、プレゼントが時間差で船便されることがその妹からの手紙に書かれており、そのプレゼントが映画で描かれる3日間におけるジャンヌの唯一の期待となっている。ジャンヌは日々のルーティンの中で頻繁に郵便受けを開けるようになる。

ジャンヌは同じアパートメントの中で娼婦としての労働を送っているが、その中で生活空間と労働空間は明確に切り離されており、その切り離しを担う行為として入浴が置かれている。1日目、2日目においてはその労働のシーンが意図的に省略される。

ここでジャンヌは、生活空間においても労働空間においても女性としての役割を果たすことを強制されている。その生活空間への外部からの圧力として妹の手紙がある。さらに2日目の料理中に男が現れることによって、切り離されていたはずの労働空間がその生活空間に侵食するようになる。男が現れたことによって料理に失敗し、性労働との切り離しを担っていた入浴ができなくなる。その生活空間への労働空間の進捗によって、ジャンヌのルーティンは段々と崩れていき不安定なものとなっていく。

生活が不安定さを増すにつれ、ジャンヌは妹からのプレゼントによってその安定がもたらされる、もしくはそれにしか縋れなくなったかのように、これから届くプレゼントに執着するようになる。郵便受けを開ける頻度が増し、3日目には待ちきれないように以前の妹のプレゼントを引っ張り出し修理に出そうとするが、それもうまくいかずに終わる。

空間の崩壊

期待していたプレゼントが届きジャンヌはそれを急いで開けるが、中身は妊婦用の服である。それは再婚して新しく子供を作ってみてもいいのではないかという妹からの提案であるが、ジャンヌにとっては生活における唯一の期待が失われたことを意味する。そしてそれは同時に、これからも家庭に縛られた生活を送り続けなければいけないという袋小路にあることを突きつけられたような感覚をも残す。

そして、そのプレゼントの中身が明らかになった瞬間に男が現れる。男の入ってくる場所は寝室であり、その寝室は労働空間と化す。ここで、ジャンヌは寝室でハサミを使ってプレゼントを開けており、生活空間から持ってこられたそのハサミは寝室に置かれたままとなっている。今後は生活空間が労働空間へと侵食し、それによって1日目時点では完全に切り離されていた日常生活と性労働が溶け合ってしまう。

ジャンヌは妹からのプレゼントに囚われた生活からの期待を引き裂かれ、その生活からの抜け出せなさと直面する。そこに、さらに労働空間と生活空間の間で保たれていた境界が崩壊することで、その二つから強制される役割によって雁字搦めになる。ここで、1日目・2日目ではカットされていたセックスが遂に映されるようになるが、そこでジャンヌは男によって物理的に身動きがとれない状態にされている。

セックスを終えた男がベッドで寝始めるが、ベッドはジャンヌの就寝場所として生活空間に属するものとしてここまでは映されてきた。そこに男が性労働ではなく生活の一部のように寝始めることで、ベッドが労働空間と生活空間の両方に属するものとなる。ベッドを中心として、その二つの境界の崩壊が決定的なものとなる。そして、ジャンヌは生活空間から持ち込まれたハサミで男を刺し殺す。それは労働空間だけでなく、生活空間をも切り裂くことを意味する。

3日目、幼い頃父親からセックスの話をされたこと、それによってわざとジャンヌと夫とのセックスを邪魔したことが、息子からジャンヌに話される。ジャンヌはその後、息子に早く帰ってくるように伝える。そう伝えたのは、今の生活を破壊するために、男が来ている時に息子が帰ってくるように仕向けたかったからではないかと思う。しかし、息子は夜になっても帰ってこずに終わる。

逃れられない退屈さ

先に書いたように、観客は動けないように固定され、ジャンヌの生活の退屈さ・動けなさを共に体感させられるようになっている。それは観客がスクリーンに縛り付けられているという映画特有の状況を利用したものである。3日目までの時点で、観客は何か作業が始まればそれを最後まで長回しで見させられ続けることがわかるようになっている。それによって、ジャンヌの生活の崩壊のきっかけとなる、男の登場によって料理を失敗する瞬間、これから自分たちが再びジャガイモを抜くところから見させ続けられることが察される。観客は心情的な同化によってだけでなく、自分たちの体感としてのしんどさ・退屈さによって、変化なく反復されるジャンヌの生活に没入させられる。

そしてその長回しは、ジャンヌが二つの空間を切り裂いた後にも、帰ってこない息子を待つジャンヌを映す形で現れる。つまり、ジャンヌはその切り裂きによっても課せられたその役割・生活の退屈さから逃れることはできないのであり、それを観客は身体をもって体感させられる。

感想 / レビュー / その他

ミニマムな音使いや作業の細部の豊かさによって、主人公が無言でも考えていることが伝わってくる感覚は非常に映画的なものだと感じるし、意図的な省略やカメラの切り替えによって映画的になりづらいものを映画的に構成した映画のようにも感じる。

ただ、映画的じゃないものを映画的なものとして見せる、それによって観客に快を与える映画というよりは、映画的な形でパッケージングすることで映画という形で観客にその映画的じゃないものを見せる、それによって観客に苦痛を与える映画のように感じた。これ以上のアトラクション映画は他にないように思う。

作品詳細

  • 監督:シャンタル・アケルマン / Chantal Akerman
  • 作品:ブリュッセル 1080コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン / Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles
  • 製作:ベルギー・フランス 1975年

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