川端康成『雪国』を映画を軸に読み直す

冒頭、語り手である島村の見る暗いトンネルの先に開けた一面の雪景色の輝くような白さは、暗闇から映画が映し出され、スクリーンが白く光る様と重なる。そしてその列車で、島村は窓から見えるともし火と窓に反射した葉子を映画の二重露光のように重ねて見る。

トンネルを抜けて雪国に入ることが映画の上映に重ね合わされ、そのスクリーンに映し出されるのは葉子であり、島村は観客として俳優である葉子に目を奪われる。

島村と駒子は現実に見たことのない西洋の踊りや映画の話で打ち解ける。ここで、スクリーンは雪国の白さを経由して繭とも重ね合わされる。葉子はスクリーン、繭の中の人物となる。島村が訪れる度に状況の変化する駒子と対比的に、葉子の状況はクライマックス前まで殆ど変化しない。

駒子には針のモチーフが重ね合わされ、葉子の生み出した繭から布を編むような存在として置かれる。これを映画に置き換えると、駒子はフィルムの編集者、つまり監督となる。

これによって、監督である駒子は観客である島村を見つめる、しかし観客である島村はスクリーンに映る俳優である葉子を見つめるという三角関係が生まれる。

観客である島村はスクリーンを通して葉子と一方的に出会うのに対して、観客と監督は出会うことはない。監督は作品を通して観客に一方的に働きかけるのみである。それが「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない」という駒子の島村に対する「美しい徒労」として表現される。

島村と駒子は国境のトンネルを天の川として、織姫と彦星と重ね合わされる。二人は一年に一度、島村が雪国を訪れた時にしか会うことができない。二人は共に暮らすことができないことを予め決定されている。

そして、クライマックスに向けて葉子に変化が訪れる。葉子が蛾と重ね合わされるが、その蛾は死の予感を持っている。駒子にとってそれは葉子の「きがちがってしまう」予感である。そして、クライマックスである繭倉でのフィルムを出火源とした火災に繋がる。

このフィルムを出火源とした火災は、冒頭に島村が見た、ともし火と葉子が二重露光で重なった映画のようなイメージと繋がるものであり、フィルムの中で葉子に宿ったともし火が遂に火災として爆発する。

そして、葉子は「空中で水平」、生死もわからない状態で火に包まれた映画館から吐き出され、冷たい痙攣の後動かなくなる。これは葉子が繭から蛾として羽化した瞬間であると同時に、スクリーンから現実世界へと飛び出した瞬間である。しかし、蚕蛾が繭の外で生きられないのと同じく、スクリーンの中の人物もまた現実世界では生きることができない。

葉子にとって繭・スクリーンからの羽化は死を伴うものであると同時に、島村が欲望した美の瞬間であるようにも感じられる。その葉子の死、そして美に向かう予感は小説を通して描かれている。

スクリーン・繭の中の人物である葉子は現実と相容れない存在だからこそ、繭倉にある映画館=繭から飛び出してくる時に「空中で水平」という非現実的、かつ息絶えてしまったような姿となっている。そしてそれを見た駒子は「きがちがってしまった」と叫ぶ。

この小説には美しいと形容されるものが二つある。一つは繭・スクリーンの外=死へと飛び出そうとする葉子の変容であり、もう一つは、観客である島村へとはたらきかけようとする駒子の「徒労」である。自分は後者に感動する。