パトリック・ボカノウスキー『太陽の夢』擬似太陽としての映画


パトリック・ボカノウスキー監督による2016年作『太陽の夢』について。

 

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全体

3パートに分かれた映画のように感じる。1パート目は宇宙、星、太陽が生まれるまで。映写機が現れ、その映写機による投影や合成などによって海のイメージが宇宙、星雲のように見え始める。海から花火へと切り替わり、その花火は星へと変化する。そして、その後に続く落とされた絵の具のシークエンスは太陽の誕生を表しているように感じる。

 

2パート目は太陽を隣に走る蒸気機関車(実際には電車だが音によってそう感じられる)の車窓からの映像が主軸になっている。太陽の誕生から子供が生まれ、その子供が成長していく(ボカノウスキーの孫の作った粘土で作られたアニメーションらしい)。成長した人間は馬車に乗るようになり、そして蒸気機関を発明する。石炭を燃やしているような工業的な熱の光が太陽と重ねられる。このパートは人間が生まれてから擬似太陽のように自身でエネルギーを作り出すようになり、近代社会へと突入していく様を描いているように思える。このパートは全体として、繰り返される車窓から遠くに見える太陽というイメージへと収束していく。

 

モノリスのような太古の石板、そしてゴキブリとハエの寓話を挟んで3パート目に入る。二つ目の擬似太陽としておかれているのは映写機であり、このパートで描かれるのは近代社会の先にあるスペクタクルとしてのサーカス、映画となっている。太陽をフィルムに収めようとする姿、建築によって太陽に届こうとしている姿が合成によって映される。このパートは以前のパートとは違いかなり現実的なものとなっており、それまで太陽が担っていた光源は街に溢れる光によって置き換えられている。そしてサーカスに集まる人々の姿が映される。座った観客達は映画の観客と変化しており、遂に現れるサーカスの見せ物、つまり放映された映画は何か腐ったようなグロテスクなものとなっている。そこで映画が終わる。

ゴキブリの寓話

3パート目前に、ハエでいっぱいのグラスに純血種のゴキブリが落ちる、そこに入ることが死を意味するにも関わらずハエはその後もグラスに入っていく。それが人間によって水捨て場に捨てられるという寓話が差し込まれる。ここでのグラスは近代社会でありスペクタクルとしての映画館、サーカス会場なんだろうと思う。そこが袋小路であり死に繋がっているにも関わらず入っていくハエは人類、観客であり、その死体の詰まったグラスはいつかは神や自然のようなより大きな存在によって水捨て場へと捨てられる。そこには、この映画で人間たちより大きな存在として現れる海、もしくは太陽にいつかは飲み込まれる人間たちというイメージがあるように思う。

多重構造

1パート目の冒頭では太古の記憶のように海に馬を走らせる人間の姿が重ねられる。それは映画の始まりと重ねられているように感じられる。その馬に乗って走る人間が馬車をつかうようになりそれが蒸気機関車、電車へと変化していく。この映画は全体として近代社会、その先にある映画へと向かっていく西洋社会の歩みの過程を表すと同時に、それに伴ってモチーフを変化させていく映画史を辿る過程を表すものともなっている。

 

この映画は映写によって海から太古の記憶を反映しながら太陽が作り出されるところから始まる。そう思うと、この映画の太陽を作り出そうとする試みの先にあったのがあの映像キメラのような何かだと言うようにも感じられる。宇宙の誕生から人間の映画へと向かっていく過程、映画の発展過程、この映画が作られていく過程という三重の過程が重ねられた映画となっている。激しく点滅するクライマックスは『天使』と共通するが、『天使』で光に向かって階段を登った先に見つけ出された人間の残像によるキメラ的な紛い物の天使は、この映画で最後に映されるグロテスクな見せ物と同じものなんだろう。

感想 / その他

近代社会、その先に生まれたスペクタクル、サーカスとしての映画への批判のような映画となっていて、イジドール・イズーやモーリス・ルメートルの方法(フィルムにつけられた引っ掻き傷)が引用されているのはその文脈なんだろうと思う。また、入れ子構造であることもこれら監督の映画と共通する。

 

映像的にはイジドール・イズーやモーリス・ルメートルといったフランスのディスクレパン映画、ジョナス・メカスやスタン・ブラッケージといったアメリカの構造映画、そしてこの監督に連なる実験映画の流れを引用によって総決算し、そこに更にデジタルやこの監督の手法を入れ込んだものになっているように感じる。自分が知らないだけで他にもさまざまな監督の手法が引用されているんだろうと思う。

 

短編が組み合わされたような『天使』と違い、全体として連続的に展開する映画で、『天使』のラストの音楽と一体化した発光する画面のあの陶酔的な感覚が60分近くずっと持続する。カール・TH・ドライヤーの『ゲアトルーズ』やこの監督の『天使』、遠藤麻衣子の『TECHNOLOGY』、ラルフ・スタイナーの『H2O』、あとジョナス・メカスなど、映像が見たことない形で光り出す瞬間が個人的に非常に好きで、この映画は60分通して映像的な情報量と快楽度の高さが保たれたまま、『天使』とはまた違う形の、何か濁っていて醜さすらある光の点滅のようなクライマックスにもつれこむから最高だった。音楽も語りの一つの要素としてありつつも映像と一体化していてそれも含めて最高。

 

https://iffr.com/en/iffr/2017/films/un-r%C3%AAve-solaire