ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』非人間的な手作業と抵抗


ロベール・ブレッソン監督による1977年作『たぶん悪魔が』について。ロマン主義的に絶望の中から美を求める主人公が、非人間的な手続きで組み上げられた社会に回収されていく映画として。そして、ブレッソンの映画はその方法によってその社会への抵抗となっているのではないか。

あらすじ

裕福な家柄の出でありながら自殺願望に取り憑かれている美しい青年シャルルは、政治集会や教会の討論会に顔を出しても違和感を抱くだけで何も解決しない。環境破壊を危惧する生態学者の友人ミシェルや、シャルルに寄り添おうとするふたりの女性、アルベルトとエドヴィージュらと同じ時間を共有しても死への誘惑を断ち切ることができない。冤罪で警察に連行されたシャルルは一層虚無にとりつかれ、やがて銃を手にする・・・・・・。環境破壊が進み、社会通念が激変しつつある中で、当時のニュース映像などを挟みながらひとりの若者の死を見つめる終末論的な作品。

出典:たぶん悪魔が - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

3人の男に表される現代的な精神崩壊の過程

殺されるアザラシや原爆のイメージがインサートされるように、近代化による自然や人間への殺戮が背景としてべっとり染み付いている。そして、登場人物たちはその殺戮された人々、自然、その絶望のようなものを内在化している。

それを内在化することによって、より生存本能が高まり課題解決に向けて行動する男がいる。それに対して、それによって逆に無気力に向かう、何にもコミットメントできず生きることも死ぬこともできない鬱的な状態に陥っていく男が対比される。さらにその無気力の先の存在として、生死を無効化した、生きながらに死んでるような、金や食べ物に対して機械的に動いているような奴隷的な男がいる。

その鬱的な男を主人公として、その生存本能が高まった男、活動的である種健康的な男との対比から映画が始まる。そして、だんだんと段々とその鬱的ででも生死への意識はある主人公と、意思のようなものがなにもないただ身体のみで社会に従属してるような男との対比に移っていく。その3人を通した躁から鬱、そして生きながら死んでいる状態への移行がセリフでも示されるテレビ、映画、麻薬によって加速される精神崩壊の過程に対応するようになっている。

精神病院でその何にもコミットメントできない状態を症状として直された主人公は死ぬことができるようになり、生きながら死んでいる男を古代ローマで鬱の治療として使われていた奴隷と、そして自身をローマ人と重ね合わせ、その男に自分を殺すことを依頼する。ロマン主義的な主人公は、死の瞬間に美を捉えようとする。しかし、それが捉えられるような予感が訪れる前に、その男によって作業のように殺され、全てが無に帰したような、主人公の死が何の影響も及ぼさなかったような感覚と共に終わる。

非現実への浮遊 / 主人公の求める美

湖のランスロ』に引き続き音の間、響かせ方や抜き差しがすさまじく、飛び降りるところの音などは明らかに編集されてるように聞こえる。映ってるものの音しかなっておらず、映像に対して違和感もないのに何かが間にあるような感覚がある。

例外的な音すら最小限だった『湖のランスロ』と比べて、エレベーター、サイレン、原爆の音、オルガンアザラシの鳴き声など、そのテクノロジー、制度とその犠牲になった自然、宗教や人間を象徴するような何か非現実的な音の響きが頻繁に出てくる。そこにさらに、乗客の会話がつながっていくバスのシーンのモンタージュ、隙間から見えるテレビなど、現実から非現実にふと浮遊するようなシークエンス、ショットが重ね合わされる。

主人公は現実から遊離しつつあると同時に、ロマン主義的で、生と死の間の何か美しい瞬間、霊感のように何かを思いつく瞬間を求めてもいる感覚があり、この映像や音がその遊離と一致するとともに何か美しい瞬間につながっていくような予感にもなっている。

ただ、死を前にして得られたかもしれないその主人公の霊感のようなものは、奴隷のような存在の男によって、日常的な万引きの延長のような作業的な無気力さによってあっけなく飲み込まれて終わる。

人間性の剥奪された手作業 / 手続き

『ラルジャン』と同じく万引きなどの手続き的な手の動きが、人間性の剥奪されたものとして、そしてその数歩先に殺人や破壊があるようなものとして出てくる。そして、それは『田舎司祭の日記』で現れた日記を書く手の動き、『抵抗』で現れた権力への対抗としてのクラフトマンシップに溢れた手作業とは真逆のもののように感じられる。この監督の映画には、人間性のある手の動きと、ない手の動きが存在し、後期の映画になるにつれ人間性のない、手続き的な手の動きが前面化する。

そして、その手続き的な人間性のない作業は、主人公を殺す男の生きながらに死んでいる状態と重ね合わされる。手続き的な作業に溢れた非人間的な社会、そしてその手続き的な作業の一歩先には殺戮がある。そして、それに絶望したとしても、それを解決することはできない。その手続き的に殺されるか、同じく人間性を消しその手続きの一部、奴隷のようになるしかない。

社会全体がその人間性の剥奪された奴隷のような手続きへと化していく、それが絶望すらも人間的なものとして消し去っていくような感覚の映画。

ロベール・ブレッソンにおける手作業

シネマトグラフ覚書』にあるように、ブレッソンが追求していたのは人間の自然を映し出す、人間の内部がそのままの状態で映ったような映画(ブレッソンはシネマトグラフと呼んでいる)だと感じられる。

決まり切った作業を行うだけの人間の魂を持たぬこと。一つ一つのショットの撮影にあたって、当初抱いていた構想に新味を加えるような斬新なアイデアを見出すこと。即興的な発明(再発明)」

君の映画の中に人が魂と心情を感じるようでなければならぬ、が、と同時にそれは手仕事のようにして作られねばならぬ。」

出典:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』

そして、それは決まり切った作業では実現できず、その人限り、その場限りの手仕事によって生み出されるものである。

であれば、『田舎司祭の日記』や『抵抗』の行う手作業はそのままブレッソンの追求していた映画(シネマトグラフ)作りの方法に対応する。そして、ブレッソンの映画においてその手作業は、非人間で手続き的な手作業によって飲み込まれていく。非人間で手続き的な手作業は、近代化していく社会における人間の在り様を表すと共に、映画も同時にそうなってきてしまっていることを表しているように感じられる。

ブレッソンは映画を通して社会においてその非人間的な手作業が支配的になっていく様を描きながらも、その映画作りの方法自体がそれに反するものとなっている。つまり、ブレッソンの映画はそれ自体が近代社会への "抵抗" となっているように思う。

作品詳細

  • 監督 : ロベール・ブレッソン / Robert Bresson
  • タイトル : たぶん悪魔が / LE DIABLE PROBABLEMENT / The Devil, Probably
  • 製作 : 1977年 フランス
  • 上映時間 : 97分

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