ロベール・ブレッソン監督による1974年作『湖のランスロ』について。近代化していく社会が破滅する映画であると同時に、近代化し切った社会が破滅する映画でもあるという二重構造となっている。その二つが音によって組み立てられ響き合うようになっている。
あらすじ
城に帰還したものの、聖杯探しに失敗し多くの戦死者を出したアルテュス王の円卓の騎士たち。その中のひとり、ランスロは王妃グニエーヴルとの道ならぬ恋に苦悩していた。神に不倫をやめると誓うランスロだったが、グニエーヴルにその気はない。そんなふたりの不義を利用して権力を手に入れようと企むモルドレッドは、自分の仲間を増やそうと暗躍する。団結していたはずの騎士の間に亀裂が入り始め、思わぬ事態が引き起こされるのだった……。ブレッソンが長年映画化を夢見ていた企画で、中世のアーサー(アルテュス)王伝説に登場する王妃グニエーヴルと円卓の騎士ランスロの不義の恋を中心に、騎士道精神が崩壊していく様を現代的視点で描いた時代劇。
湖のランスロ - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画
音の対比
鎧の金属音、馬の足音や杭を打つ音、チェスの駒を打ち付けるように動かす音などの鈍い打音が反復される。その中に稲妻の槍であるランスロの槍の音、そして雷の音という二つの破裂音が鳴り響く。明らかに声質でキャスティングしてるような感覚があり、少しエコーのかかったようなランスロと王妃の高い声が他の男達の低い絞ったような声に対して抜けるように響く。さらにそれらの音がレイヤー的に重ね合わされ、無音により強調される。
カメラが映すのは出来事ではなく音の鳴っているところであり、情報は全て音が主導している。何が起きたかはまず音によってわかる。それが基本的なトーンとなっている中、音と映像の乖離する瞬間がそれと対比的に現れる。
ここで、規則的な音を発するのは騎士達であり、王妃とランスロはそこから音としても逸脱している。
行き場のない近代社会の破滅
ルールが決まり動き出したら止めれない存在、機械仕掛けのような存在として騎士達がいる。その騎士達に対して心、愛を与える存在として王妃が存在する。騎士達が規則的な音を発するのは機械仕掛けであることを表しており、騎士達がブリキの木こりだとすれば、王妃はドロシーのような存在となっている。
騎士達は聖杯を取り戻すという目的の元自己犠牲的に戦ってきたが、その戦いがなくなったことにより同じ場所に留まるしかなくなる。騎士達は行動意義を失ってしまう。その失った行動意義を自分達で新たに作り出すように、騎士達は王妃とランスロの不義を口実に内部で戦いを始める。
その騎士達の破滅は予言されており、その通りに全員が段々と内破していき、機械仕掛けの人形が動かなくなるように動かなくなっていく。それに対応して、規則的に発されていた金属音や打音のリズムも段々と乱れていく。
機械のような人間達が当初の目的を失ってしまうが、目的なしでは生きられないため、新たに本来とは違う目的を作り出す。そして、その目的の元システムが変更され、それに機械的に従いながら殺し合うという、行き場を失ってしまった近代社会、そこにおける人々を表すような寓話的な話となっている。
近代化していく社会の破滅
舞台は箱庭的な城とキャンプであり、それに対して神秘的な森がある。王妃が人間、騎士達が機械だとすれば、森とそこに属する馬や鳥、森とそこにすむ家族は人間の力の及ばない自然に対応する。騎士達はその自然を畏怖して見ないようにしている。もしくは無視している。それを表すように、この映画での舞台は城とキャンプに閉じており、ほとんど自然が映されない。
ランスロは自然に属しているかのように森に馴染んでおり、さらに神=自然とおかれるため、最強の存在として雷を操るランスロの力の源は神であることにもなる。それがランスロのみが騎士達の中で、王妃と同じように音として逸脱した存在となっている理由である。
そのランスロが不義、つまり神に従うことよりも王妃を選ぶ。それにより、ランスロは聖杯を拒否され、自然 / 神との不調和が発生し始める。ランスロの視点からは自然が畏怖的なものとして現れ始め、それがランスロが窓越しに見る森の姿に象徴される。そして、その不調和を象徴するように、元はランスロのものだったはずの雷の音が、規則的な音と対比的に、不吉な予感とともに鳴り響く。
一方でランスロに敵対する騎士達は、噂話によって繋がる社会 / コミュニティとして存在する。そして、その騎士達が森を利用し始める。その社会がランスロの代わりに神 / 自然と共謀するようになる。神と王妃の間での葛藤の後、王妃を選んだランスロは仲間達に死をもたらす。そして、自然 / 神と共謀した社会、敵の騎士達によって仲間とともに殺され、最後は自然に飲み込まれる。
この見方では、神に従うよりも人間であることを選んだランスロが、その神、そしてその神の元にある社会によって殺されるという物語となっている。それが、当初の理想を失い、その場で作り上げた理想の元に機械的に内破していく騎士達の物語と響きあう。前者は人間中心主義を選び近代化へと進む一方で神 / 自然を失い、それによって破滅する物語であり、後者はその後当初の理想や行き場を失った近代がそれにより自滅していく物語である。そして、どちらも破滅した後は自然へと帰してゆく。
感想 / レビュー / その他
馬の目の普段の虚無とひん剥かれた時の暴力性。開けられた時にのみ見える口内の人間的なグロテスクさなど、ピカソのゲルニカのように、発露した苦しみの中心に馬の目と口がある。
80年代のゴダールの映像と音の分離、異化とそこから来る異様で畏怖的な感覚みたいな実験はこの映画から来てるんじゃないかと思う一方で、既にこの映画の時点で完成されているようにも思う。こんな映画見たことないし今後出会うこともないような気がした。
音を中心とした映画であることに加えて、自分が音楽を聴く時、打音の間と響き、その周囲にあるアンビエンスみたいなものに惹かれるのもあって、映画としての良さ以上に自分の好きな音楽の感触に近いという感覚になった。
作品詳細
- 監督 : ロベール・ブレッソン / Robert Bresson
- タイトル : 湖のランスロ / LANCELOT DU LAC / Lancelot of the Lake
- 製作 : 1974年 フランス
- 上映時間 : 84分