『ソー:ラブ&サンダー』ヴァイキングと国家 / アイデンティティの再獲得 / 続編に向けて


『ソー:ラブ&サンダー』は何を語ろうとしていたのか。神と人間、そしてローマの神とヴァイキングの神という対比、そしてソー及びアスガルドのアイデンティティの再獲得を軸に、続編がどういう話になるかを含めて書いています。

 

※ 『ソー:ラブ&サンダー』のネタバレがあります。

 

あらすじ

クリス・ヘムズワース演じる雷神ソーの活躍を描いた、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の「マイティ・ソー」シリーズ第4作。「アベンジャーズ エンドゲーム」後の世界を舞台に、「神殺し」の異名を持つ悪役ゴアとの戦いを描く。サノスとの激闘の後、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの面々とともに宇宙へ旅立ったソー。これまでの道のりで多くの大切な人々を失った彼は、いつしか戦いを避けるようになり、自分とは何者かを見つめ直す日々を送っていた。そんなソーの前に、神々のせん滅をもくろむ最悪の敵、神殺しのゴアが出現。ソーやアスガルドの新たな王となったヴァルキリーは、ゴアを相手に苦戦を強いられる。そこへソーの元恋人ジェーンが、ソーのコスチュームを身にまとい、選ばれた者しか振るうことができないムジョルニアを手に取り現れる。ジェーンに対していまだ未練を抱いていたソーは、浮き立つ気持ちを抑えながら、新たな「マイティ・ソー」となったジェーンとタッグを組み、ゴアに立ち向かうことになる。

ソー ラブ&サンダー : 作品情報 - 映画.com

神と人々の対置

神とそうでない人々が対置されており、神は生まれつき人々に対して権威や力を特権的な存在として置かれている。神々の中にも階層が存在しており、それは捧げられた生贄の数や権威によって決められているように見える。そして、その上位に位置するゼウスを中心とした神々は人々を搾取し放蕩するような存在となっている。ヴィランであるゴアはそのような神に搾取されていたことを知り、神を殺す力を得たことで復讐として全ての神を殺すことを決める。

主人公であるソーは神々の一人であるが、前述の神々がローマ帝国における神としてその王のような生活をしているのに対して、ソーはヴァイキングにおける神でありヴァイキング的な生活をしている。今作までの流れとして、ソーが王として治めていたアスガルドは国として一度滅び、今はその生き残りが多民族国家のような形で地球に「ニューアスガルド」として存在しており、神ではないヴァルキリーがその王として治めている。そして、ソー含むアスガルドの神々はそのニューアスガルドにおいて神話として、まさに神として語られる存在となっている。

そして、その元恋人であるジェーンはソーの持っていた神の力を手に入れることになる。神の力を手に入れた人間という点でゴアと共通する一方で、立場としてはゴアによる殺害を防ごうとするという点で対立する存在となっている。そして、ヴァルキリーは過去の暴力的な歴史を隠蔽するために仕えていた神によって仲間を殺されており、神によって搾取され犠牲になったという点でゴアと共通するが、ジェーンと同じくゴアと対立する形になっている。

ニューアスガルドと資本主義社会

ニューアスガルドは初めに資本主義が発達したオランダの人々がアメリカに移住しその場所にニューアムステルダム(現在のニューヨーク)という名前をつけたことと重ねられている。そして、前作ではアスガルドにはソーの父親による暴力的な歴史があったことが明かされるが、それは大航海時代から今に至るまでの侵略的な歴史と重ねられる。今の資本主義国家がローマ帝国から続くものだとすれば、ニューアスガルドの設定はヴァイキングが完全には滅びずに今に至るまで存続し、資本主義社会の傍で生き続けているというものになっている。つまり、ニューアスガルドは多民族国家として、帝国ではなくヴァイキングを起源とした if の世界のアメリカのように置かれている。

MCUには似たように if 的な形で存在するオルタナティブな国家として、アフリカ社会がその技術的発展により侵略戦争を逃れつつ存続してきた国家である『ブラック・パンサー』におけるワカンダも存在している。

ゼウスによってもはや人々は神ではなくスーパーヒーローを崇拝するようになったということが語られるが、それはスーパーヒーローを映画の主人公たちとして、神への崇拝が基盤となっていたローマ帝国から今の資本主義国家への変化に対してメタ的に言及したもののように感じられる。

ニューアスガルドもまた、その資本主義的な社会と共存する形でその歴史を観光資源やマーケティング資源とすることで存続している。前作でアスガルド人に向けて行われていたソー含む神話を元にした演劇は外部からの観光客に向けたものとなっており、戦いを性分とするヴァルキリーは企業によるマーケティングへの協力などによって消耗している。

ローマ帝国とヴァイキング

人々とその上位の存在として神々、そしてその二つがさらにヴァイキング起源のものとローマ帝国起源のものに分けられる。ローマ帝国起源の神々としてゼウス達がおり、その神々に搾取された人間としてゴアがいる。それに対してヴァイキング起源の神としてソーが、ヴァイキング側における人間としてジェーンとヴァルキリーが置かれている。ジェーンとヴァルキリーはゴアと対立する立場にありつつも、それぞれ神の力を得たこと、神によって搾取されたことによって共通する。そして、ゴアとソーは神と人間という違いによって対立し、その起源の違いという点でも真逆の存在となっている。

ゼウス達の搾取によって全ての神への復讐を誓ったゴアが、ヴァイキング起源の神であるソーを殺そうとし、そこでソーだけでなくそれに協力する同じ人間であるジェーンとヴァルキリーとも戦うことになる。そして、ソーはゼウス達に幻滅し対立するようになる。

映画を通したソーの変化

ソーは神として特権的な存在であり、民族的な多様性を許容しつつも価値観の多様性は尊重しない。自分を神、人々の上位の存在として認識し、自身の価値観やアスガルドの文化を押し付ける存在となっている。それによって、互いに価値観の違いを許容しあって成立しているコミュニティとして置かれているガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーのメンバーとは相容れない。

さらに、ソーにとって戦いに出ることは愛を失う恐れから逃れられる手段だったことが明かされるが、戦いに出ても結局愛を失ってしまうことから、この映画でのソーは関係性の中に愛が発生しないように他者から自分を閉ざすようになっており、ソーであることを求められればそれを演じるだけの存在となっている。ソーが戦いの前に行う演説は、ニューアスガルドでの演劇が外部に求められたアスガルドを提供しているのと同じく、空虚に演じられただけのものとなっている。

そして、他の神への幻滅、神の力を持った人間であるゴアとの戦闘、そしてジェーンとの対話を通して、ソーは神と人間を区別しないようになる。それを表すように、クライマックスの戦いでは子供達にも神の力が分け与えられ、そのような力がなくてもアスガルド人だということが語られる。そして、ジェーンは死後、人間でありつつも神の国であるヴァルハラに歓迎される。さらに、他者に対して自分を開き、愛を選ぶことができるようになり、ゴアの子供を自身の子供として育てるようになる。神と人の区別をなくし、愛を選ぶようになるという形でソーの価値観が反転する。

次作に向けて

ソーの変化により、ニューアスガルドにおいて神と人間の区別がなくなるようになる。それによって、神やそれに近い能力を持つ人々によって行われていた自衛のための戦闘が、そこに住む人々によっても行われるようになる。そして、父親になったソーとその子供はスペース・ヴァイキングとして暴力を振われている弱者(と定めたもの)を暴力によって守るようになっている。

前作が父の作り上げた暴力的な負の歴史を持った国家を破壊し、新たな多民族国家を作る話だったとすれば、この映画は資本主義社会に取り込まれつつあったその国がヴァイキングとしてのアイデンティティを取り戻すという話になっている。ただ、それは父親の行っていた暴力の歴史を再生産することにも繋がる。

そもそも、ソーは序盤でガーディアンズと共に暴力を振るっていた側を何の話も聞かず一方的に攻撃し、暴力的に制圧しているため、この部分に関しては映画を通して変化がない。これに関しては自身の判断を絶対視するソーの考え方とも共振するもので、父親になったソーが自身の父親の再生産をいかに避けるか、ニューアスガルドがアスガルドの歴史を反復することをいかに避けるかは次作で語られるんだろうと思う。この映画は一度失われたアスガルドそしてソーとしてのアイデンティティを再獲得する話であり、他者や外部と関係性を築くためのスタート地点に立つ話であり、次作に向けた橋渡しのような映画だと感じる。

加えて、過去に失った関係性として今作ではジェーンの話があり、次作ではロキとの関係性を同じく魔法によって創られたゴアの子供(生き返ったのではなく創られたことが反射した姿によって示される)を通して描いて行くんだろうなと思う。ヴァルハラの存在がわざわざ示されたのは、神の力に憧れたジェーンの物語的な昇華のためでありつつも、その後ソーが失った他の人々との合流を描くための伏線でもありそう。

感想 / レビュー

見終わった後、何がしたい映画かわからなさすぎて考えながらこれを書いた。ヴァイキングの船における戦いの笛を船に括り付けられた叫ぶ羊に置き換えているところなど、いくつか好きな部分はあったが、全体的に会話シーンでの絵面がひたすらに単調だったり、無理矢理ねじ込まれたような不自然に発されるセリフが多かったり、ワープ的な移動が多用されすぎて場面の転換がつぎはぎのようになっていたり、連続的なシチュエーションの変化という映画的な気持ちよさがほとんどないように感じた。

多用されるワープ的な移動はジェーンによるワームホールの話と対応してる一方で、それに何か意味があったのかはわからなかった。

あと、何回も使えないだろう映画自体がモノクロに変化するというトリックを特にモノクロであることを活かさない形で使ってしまって良かったんだろうかという気持ちもある。モノクロであることによる意味づけ(ドラマではワンダヴィジョンでやっていた)や、モノクロだからこそ実現できる演出や映像感覚とか結構あったんじゃないかと思う。ローマの神々の金色、ゴアの黒、ソー達の虹色で使い分けてたってことなんだろうか。

あとエンドロール含めて2回使われるガンズのSweet Child O’ Mineはそこで切る?ってところで切られる。

https://www.marvel.com/movies/thor-love-and-thunder

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