性愛の原風景、規範の確立 ー ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアン・ナイト』

生の三部作最終作として『デカメロン』『カンタベリー物語』に続く作品。これら前二作がイタリア、イギリスと舞台を変えつつも原作の書かれた時代、同じ14世紀を描いたものだったのに対して、この『アラビアン・ナイト』はその数世紀前が舞台となっている。これら三作が共通したテーマを描いていることを考えれば、これは『デカメロン』『カンタベリー物語』で描かれた状況の前日譚のような作品となっている。

作品を遡れば、パゾリーニは『愛の集会』において、カトリック社会は家族を最小単位として構成されていること、そしてその家族に対してカトリック的な性規範、姦淫の禁止を課し同質化することで成立していることを性についてのインタビューを通して描き出している。ここで、その性規範を破ること(同性愛、女性の婚前交渉、浮気)は家族から除外される、つまり社会から除外されることに繋がる。『愛の集会』はカトリック社会による規範が資本主義社会となった現代の自由の概念と矛盾するものであり、それが様々なイタリア社会の問題の根本にあることを炙り出した作品となっている。それに紐づければ『アッカトーネ』『マンマ・ローマ』は貧困層、カトリック社会の外部に生まれた人々が、そのために定められた性規範から逸脱せざるをえず、その逸脱により外部に留まり続けなければならないという、社会構造によって外部化されることを運命づけられた人々を描いた作品となる。パゾリーニは、カトリック社会による性の抑圧が構造的に人々への抑圧へと繋がっていることを描いてきた作家だ。

『デカメロン』『カンタベリー物語』は同じテーマを14世紀カトリック社会に時代を遡って描いたものだ。そこにはカトリック教会、資産家などの権力者達がいて、それによって定められた規範によって抑圧された人々がいる。そして、権力者達自身はその規範には従わず、人々から性的にも金銭的にも搾取していく。社会構造、人々のおかれた状況は現代と根本的には何も変わらない。違うのは、悪魔と神が人々に見える形で存在することだ。悪魔、悪魔的な存在は三部作において全てフランコ・チッティによって演じられるが、『デカメロン』では資産家が悪魔的な男に犯罪を犯させることで資産を築いてきたこと、そして教会に聖者として眠るのはその悪魔的な男だということが描かれ、『カンタベリー物語』では教会の召喚人が悪魔と契約する姿が描かれる。権力者達は悪魔と共にある存在として描かれる。『カンタベリー物語』はそれら権力者達は地獄に落とされる。一方で『デカメロン』は抑圧されてきた人々の一人が神に出会い、性規範が神ではなく人間によって作られたものであることを知る。そして、これら二作において映画内の語り手はどちらもパゾリーニ自身によって演じられている。パゾリーニは自身の作品のうちで、悪魔のような権力者達を地獄に落とし、権力者達によって抑圧された人々の性を神によって解放する。そして、それはパゾリーニ、ボッカチオ、チョーサー、そしてその出会った人々によって語られた物語であり、いわば抑圧された市井の人々の願望を叶えたようなものとなっている。

『デカメロン』『カンタベリー物語』がこのように性規範を作った人々を地獄に落とし、抑圧された人々の性を解放するという作品だったのに対して、『アラビアン・ナイト』は、それら二作の状況の始まりを描いたもの、つまりその性規範がキリストによってもらたされ、それが権力と結びつくまでを描いたものとなっている。

『アラビアン・ナイト』の舞台はアラビアであり、そこでは詩人として登場するパゾリーニが少年を買っていたり、ヌレディンや登場人物達がさまざまな人々と関係性を持ったりするなど、それは『デカメロン』『カンタベリー物語』で描かれたのとは逆の、性規範のまだ存在しない世界、人々が性別や身分に関係なく望むように関係性を持つ世界となっている。

ヌレディンという少年が、ズムルードという女奴隷と出会い幸せな生活を送るようになるが、ズムルードはキリストのような青い目の男によって誘拐されてしまう。全体としては、それを探すヌレディンの物語を中心として、その出会う人々の回想や語りが差し込まれるという形式となっており「真実は一つの夢の中ではなく、複数の夢の中にある」という冒頭の引用の通り、それら回想、語りが全体として一つの真実、物語を表現したものとなっている。

最初の物語はズムルードがヌレディンに読み聞かせたもの。裸で水浴びする女性を見かけた王は、それを詩にすることをパゾリーニ演じる詩人に頼み、その後詩人は3人の少年を売春する。王はその見かけた女性と会い、男と女どちらが劣っているかを決めるため、若者男女を引き合わせどちらが相手に惚れるかを賭ける。結果、男女は互いに惚れ合い、どちらも劣っていないという結論に至る。それはあたかも世界で初めて男女が愛し合った瞬間のように映される。そしてその二人の姿は劇中のヌレディンとズムルードにも反響する。この物語において全員が自分の欲望に従って行動できる一方で、ここには詩人と少年達、王と若者男女など、明確に支配被支配の関係が存在している。これはカトリック以前の社会を描いた『アラビアン・ナイト』の中でも、映画全体の原初風景のようなエピソードとなっている。

あたかも物語を語ることによって織られたかのように、ズムルードはヌレディンにタペストリーを渡す。青い目の男に商品を売ってはいけないと警告するが、ヌレディンはその男にズムルードのタペストリーを売ってしまう。それはズムルードの語ったアラビアの原初風景のような物語自体が、西洋の男のものになってしまったように感じられる。一人西洋的な外見を持つその男の服装はキリストのように見える。そして、その男はさらにズムルードを誘拐する。キリストによって男女の愛し合う姿そのものが奪われたように感じられる。ヌレディンとズムルードの物語はこのように、キリストに奪われることによって始まる。ズムルードは辿り着いた国で、予言されていた王として迎えられる。そしてキリストのような男を盗賊と同じように磔刑にする。ヌレディンは複数の女性と関係を結びながら、ズムルードの元に辿り着き二人は王として結ばれる。

並行に語られるのは、王子が王女と出会うまでの物語である。それはニネット・ダヴォリ演じるアジズの物語、悪魔と出会った元王子の画家の物語をサブストーリーとして挟みつつ展開される。そして、王子が王女を知るきっかけもまた、王女によって書かれたタペストリーである。

アジズの物語は愛についての物語となっている。誠実な妻を持つアジズは、街で見かけた女性に惚れる。しかし、アジズはその女性の言葉の真の意味を理解できず、その女性の求めることがわからない。アジズは方法を妻に聞き、誠実な妻はその女性の求めるものを言語化してアジズに教え、その女性に送る詩も考える。アジズはあたかも愛の概念を知らないような存在としておかれていて、求めるのは欲望の充足のみであり、それはアジズが女性の心臓ではなく女性器に向けてディルドの矢を撃つショットによって象徴される。アジズが女性の言葉を理解できないのは愛を知らないからであり、その妻はアジズへの愛を知っているからこそそれを理解できるように見える。アジズの不誠実さに誠実さによって応え続けた妻は自殺してしまうが、アジズはそれに対して何も思わない。全てを与えようとする妻とは反対に、その女性はアジズの全てを自分のものとするような存在となっている。アジズは新たに結婚するが、それを知った女性はアジズの男性器を切り落としてしまう。その後、妻の残したメッセージを読みその誠実さを知ったアジズは、初めて妻の死に対して泣き崩れる。パゾリーニの映画において共通して、ニネット・ダヴォリ演じる役柄は純粋無垢で欲望に忠実で、自分の意志を持たない人物として描き続けられている。この物語は不誠実な男が誠実な妻を失った後にその大切さに気づくという教訓話であり、ニネット・ダヴォリのような人物は愛を知らない存在だとして、それが愛を知るまでを描いたもののようにも感じられる。

次に語られるのは、悪魔と出会った元王子である画家物語である。そこで悪魔は女性を地下に幽閉していて、その女性が他の男性と関係を持つのを許さない。これは『愛の集会』でも描かれる、女性の姦淫を恐れるがあまり女性を家の中に閉じ込めてしまうカトリック社会の比喩だと感じられる。『デカメロン』『カンタベリー物語』で姦淫を行ったものを処刑し、人々から搾取しつつ自分達は姦淫を行う権力者達の姿が描かれ、それら人物が神を信じているのではなく悪魔に憑かれているということが語られ、その悪魔はこの作品と同じくフランコ・チッティによって演じられている。これら二作の前日譚のようなこの映画ではカトリック教会となる前の、まだ地下に隠れている状態の悪魔の姿が描かれているように見える。

王子はアジズの持っていたタペストリーによって王女の存在を知り、恋焦がれるようになる。しかし、王女は罠にかかった雄鳩を雌鳩が代わりに助けるが、雄鳩はその雌鳩をおいて飛び去り、雌鳩がそのまま殺されてしまうという夢を見て、男性の誠実さを信じられなくなってしまっている。それに対して、元画家はその雄鳩はその後タカに食べられてしまったという物語を描く、不誠実さには神によって罰が与えられることを描くことによって、王女の男性への不信を解く。それはアジズの物語、その教訓をそのまま反映したものとなっている。それによって、王女は王子を受け入れるようになるというクライマックスに至る。

ズムルードとヌレディン、王子と王女は、どちらも互いに対して誠実であること、姦淫を行わないことを教訓として結ばれ、どちらも二人が王族となるという点で共通する。そして、前者はその物語の中にキリストを、後者は悪魔を含む。この映画は全体としてカトリック社会の性規範が確立し、それが権力者によって採用される過程を描いたものである。前者はタペストリーによって離され、後者はタペストリーによって出会うが、キリストによって一度奪われるこのタペストリーはその性規範、聖書のことを指しているのだろう。

最後に挟まれるエピソードは、これら二つとは関係しないものである。そこで、予言通りに島を司る何かを殺した男は、少年と出会い関係性を持つ。その少年は英雄である男に殺されることを予言されており、男は少年と寝ている間に予言通り、誰かに操られたように夢遊病的に少年を殺してしまう。これは、冒頭の原風景のような物語でパゾリーニ演じる詩人が少年を売春するシーンと対応する。ヌレディンとズムルード、王子と王女の物語は同性愛など、彼らが定めた規範から逸脱した恋愛の形を禁じるようになる。いわば、このエピソードはそれらが可能だった時代の終わりの瞬間を表現したものだろう。そして、その時代の終わりはズムルードが王になることと同様、予言されたもの、最初から決まっていたこととして描かれる。『カンタベリー物語』では、その後、男色した男が教会によって火刑に科される姿が映されている。

この映画は「神の創った最高の夜、始まりは苦いが終わりは甘い」というセリフによって締められる。ハッピーエンドを迎えたように終わるが、パゾリーニが描いてきたのはそれを甘い始まりとして、今の苦い現実があるということなんだろう。

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