ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』象徴させない演出


ロベール・ブレッソン監督による1962年作『ジャンヌ・ダルク裁判』について。

象徴することとしないこと

カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』が権力差や体制の暴力性、内的な葛藤など、裁判に関わる要素の象徴的な演出に溢れていたのに対して、この映画は主軸の3人、そのうちの2人の会話を手続き的に繋げたようなものになっている。その他の要素で象徴的なものは、単調で均質な大衆のヤジ、覗く側としての男とその内輪でのゴシップくらいのみであり、それぞれにほとんど変化がない。ドラマティックになりそうな火刑のシーンも煙で気絶してそのままであり、基本的に事実以外は何も語らないような演出になっている。

そうした演出の果てに、火刑になるジャンヌを眺める教会側の人たち、煙に包まれるジャンヌ側の人たちが掲げる十字架、ジャンヌの架けられた焼け切った棒という三つのモチーフが象徴的に出てくる。それらに、体制、民衆、信仰、虐殺などそれらのモチーフ自体が記号として表す以上の様々な文脈が含まれているようなオーラがある。それまでの象徴させない演出との対比によってよりそのオーラのようなものが際立つような感覚がある。

協力者が指示を出してジャンヌと裁判官が会話をするという流れがリズムよく続いて行ったその流れの先に、協力者が指示を出せずにジャンヌが自分で考えて答えるというその流れを外したような変化があるなど、リズムを意識したようなある種音楽的な演出が通底している。そこにドラムロールのような裁判官の木槌のような暴力的な音が鳴り響くのが印象的。

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デンマークの監督であるカール・テオドア・ドライヤーが同じジャンヌ・ダルク裁判について撮った『裁かるゝジャンヌ』について。ブレッソンはこの『裁かるゝジャンヌ』を批判しつつこの映画を撮っているので、比較して見ると楽しいかもしれない。

http://www.filmsufi.com/2009/01/trial-of-joan-of-arc-robert-bresson.html