カール・テオドア・ドライヤー『ゲアトルーズ』 愛への信仰と自己の分裂


カール・テオドア・ドライヤー監督による1964年作『ゲアトルーズ』について。

愛への信仰

愛が全て、裏返せば愛以外がない、信仰もないし生きてもいないという女の人が主人公となる。

恋愛と思考が両立し、恋愛の中で愛と官能が共存する。そしてその恋愛が永遠に維持されていて(「合わさった唇がそれのみで赤い点となる」)、思考は真理に紐づいていてそれを表現していけばいいという調和した状態が、愛の理想の状態として、元彼の作家論を通して示される。それが派手な行進の後に読み上げられることで、権威的であり理想論的なもののように感じられる。

それに対して、主人公は恋愛以外がない、元彼の作家論でいう思考がないため、その理想的な状態を実現できない。だからこそ愛のみを信仰のように純粋に追い求めていく。

愛と官能は両立できたとしても一過性のものである。元彼との関係性は元彼が仕事や名声、肉欲などの欲望に寄っていくことで愛を受け入れることができなくなることで破綻する。

その元彼との経験によって、主人公の中で愛と官能が分離する。夫とは官能によって、浮気相手とは愛によって、それぞれ分裂した状態で惹かれていく。浮気相手の部屋で主人公が服を脱ぐ姿が壁に映った影として映される。鏡の角度によって主人公が二人いるように、もしくは鏡に映る主人公しか存在しないように見える、それらのショットによってその主人公の分裂が表される。そして、その分裂した状態でのどちらの関係性もが挫折することによって主人公は愛の実現を諦める。

そして、主人公との恋愛の挫折によって、元彼と夫は愛の理想のようなものを失ってしまう(「空虚になる」)。

理想と現実、愛と官能の分裂などの自己の分裂に伴う精神医学的な症状として、主人公には人生が夢のように感じられる。そこに、パリで精神医学を学ぶ友人が現れる。

そして、後日譚として、主人公が精神医学を学んだからか自己の分裂について折り合いがついていること、友人とは友人のままでいる、愛を未だに実現しようとしていない、つまり愛への信仰を捨てていないことが示される。そして友人と互いの愛への思いを笑って読み合った後、ドアが閉まって終わる。

映画を通して、からくり人形、魂の抜けた物質のような人間の動きが通底しており、登場人物達の視線は合わされない。しかし、一瞬だけ愛が満たされていた回想シーン、そして後日譚でのみ、魂が宿ったように自然な動きになり、主人公達の視線が交わされる。そして、画面が眩しいくらい白く光り出す。それによって、主人公はその愛への信仰を捨てなかったことで、主人公の中での愛を実現できたように感じられる。元彼の作家論に合わせれば、真理すら愛だったってことなのかもしれない。

主人公が後日譚までにどのような過程を経たのか、本当に主人公は望んでいた愛を実現できたのか、そうであればどのような形によってなのかなど、全てが明かされないまま、ドアが閉まり映画が終わる。

他作品と併せて

structuredcinema.com

こちらでほとんど書いた。

この監督の映画には複数の形に信仰が存在していて、『裁かるゝジャンヌ』『怒りの日』では体制の信仰とそれに対する個人の信仰が主軸になっていた。『奇跡』では複数の信仰に対して愛に対する信仰のようなものが中心として置かれており、『ゲアトルーズ』はその信仰についてより踏み込んだ映画になっている。

カール・テオドア・ドライヤー監督が映画を通して辿り着いたのがこの愛への信仰のようなものだと感じる一方で、その内容は自分にはまだわからないし、それを明かさないまま扉を閉めて終わるところが遺作として本当に最強だと感じる。

感想 / レビュー / その他

光とカメラの動きによって変化していく構図が通底していて、その極地のような、人いない部屋を映した後、その壁に服を脱ぐ主人公の影が映り出すショットが本当に良かった。

元彼の鏡によって主人公が2人いるように見える、鏡越しの主人公しか映ってないのに鏡の位置にいるように見える、浮気相手に対して服を脱ぐ時に影だけが映るなど、元彼との交際を経た主人公の分裂が視覚的に示されるショットがどれも最高。

詩を朗読するようなセリフによって映画自体が進んでいく、ほとんどモノローグの会話劇のような映画で、男達が何度も発するゲアトルーズっていう呼びかけがそこにリズムを作っている感覚があった。

いろんな映画見てからまた見直したいなと思った。それか自分が年老いたらより何かが見えてくるのかもしれない。

https://www.imdb.com/title/tt0058138/