クシシュトフ・キェシロフスキ『アマチュア』メタ構造により反転する結末

クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1979年作『アマチュア』について。

自己反省を促される主人公

表現を抑圧するものとして権力があり、ここではその権力は工場の上部となる。そして、その権力に対抗するものとして労働者が存在する。権力に抗い理想の表現を実現することに対して、権力に従った表現が対置される。そして、私生活においては、権力の元での通常の生活、制度として満ち足りているとされる生活に対して、何かを犠牲にしつつも自身の表現を追求する生きがいのある生活が対置される。

自身の働く工場で映画を撮ることになった主人公は、自身を権力に対する表現者であり労働者とみなすようになり、その二元論的な価値観に陥っていく。そして、それまでの権力に従った生活よりも自身の表現を追求すること選ぶ。そのような主人公が、そのような二元論的な価値観を反省し脱却する、その二つの間に様々な種類のグラデーションの立場や方法が存在することに気づいていく話となっている。

その気づきを促すのはその権力である工場長であり、その工場長は主人公のとる映画の検閲者でもある。そのため、権力に反抗されるようになった主人公が権力者が正しかったことを知り、権力によって懐柔されていく話にもなっている。

メタ構造による結末の反転

この映画は、主人公がこの映画を撮るシーンで終わるように、この映画自体が主人公によって撮られたものであるというメタ的な構造を持っている。それは映画を撮り始める前の主人公の主観が、映画を撮り続けた後の主人公の洗練された撮り方で撮られることでも示される。

そう考えれば、この映画自体が工場長・検閲者との妥協の元に作られたものであるようにも見える。工場長の行動が理想的ではないが現実的には正しい選択であったことがわかるシークエンス、最初は悪役として典型的に撮られていた工場長が最後は同じ人間のように撮られる展開は工場長の指示によるもののように見える。

それによって、この映画自体が表現者・労働者としての価値観を未だに持っている主人公が権力者との妥協の元に完成させたもののように感じられる。この映画内で主人公は自身を反省し、権力に妥協するようになるが、それは検閲者に向けた見せかけでありその表現者・労働者としての反抗を未だに持ち続けているようにも見えるようになっている。

劇中、主人公が検閲者に演出して撮った鳩を演出なしで撮ったもので意図がないと嘘をつくシーンがある。それによって、この映画自体が検閲者との妥協のもと完成したものであるとすれば、主人公はこの映画を表面的には検閲者の望むような形にしつつも、その表現者・労働者としての意図をこの映画の中に隠しているだろうことがわかる。

冒頭に鶏を仕留める鷹のショットが象徴的に入れ込まれている。妻の夢から、その鷹は主人公に振ってきた映画を撮るという考えであり、鶏は主人公、そして今までの生活であることが明示される。しかし、その明示は主人公の検閲者に対する見せかけであり、鶏は映画、労働者・表現者でありそれを襲う鷹は検閲者、権力者として意図されているのではないか。

さらに言えば、この映画で描かれている権力者によって現実を言い訳として理想が妥協させられていく過程は、当時のポーランド社会における映画制作のことであると同時に、民主化運動のことでもあるように感じられる。そして、メタ構造によってその妥協が表面的なものでしかないこと、権力に対する反抗が抑圧されながらも生き続けていることが示される。

感想 / レビュー / その他

『偶然』『終わりなし』へと続いていく監督自身の民主化運動に対する心情を反映した映画にもなっているように思う。

http://thecinemaarchives.com/2020/10/02/camera-buff-1979-kieslowski/