クシシュトフ・キェシロフスキ監督による1981年作『偶然』について。
分岐により浮かび上がる社会 / 人間
人生の目的を見失ってしまった主人公の運命が、電車に間に合うか、止められるか、乗るのを諦めるかによって三つに分岐する。そして一つ目の分岐では体制側(共産主義)へと、二つ目では反体制側へと与するようになっていく。そして、三つ目の分岐ではどちらにも与しない。
その分岐においても、恋愛を優先し、反体制へのシンパシーがあるという主人公の持つ行動原理は変わらない。それと同様に、当時の社会、その構造も変わらない。それによって、どの分岐においても主人公の行き着く先は同じ死となる。偶然によって生じた分岐は主人公の行動原理、そして社会構造によって運命へと収束する。
三つの分岐によって、体制側、反体制側、そしてそのどちらでもない立場という三つの立場からの視点を通して、当時のポーランド社会、そこに生きる人々が浮かび上がってくる。同時に、その三つの分岐における主人公の行動を描くことで、状況が変化しても共通する主人公の本質のようなものも浮かび上がってくる。そして、その社会と個人の上に運命が存在する。その大きな流れ、不変である人間的な本質、それによって動いていく社会の流れの下では、体制・反体制どちらの人々の行動も主人公の行動も些細なものとなる。
ただし、その主人公の人間としての本質、そして社会構造の抗えなさに対して、「目的や理念がなくても10年間積み重ね続けられる」というセリフがある。それは目的を失った主人公でも、そういう自分自身が変えることができなくても、積み重ね続けることで変わらない社会を変えることができるという意味を持つように感じる。それが、その運命への反抗として希望的に響く。
他作品と併せて
複数のパターンを並列に並べることで社会・人間を具体的に描くとともにそれらに普遍的なものを浮かび上がらせるという方法は、この監督が『異なる年齢の7人の女性』そして『トーキング・ヘッズ』によって確立した手法のように感じる。『異なる年齢の7人の女性』『トーキング・ヘッズ』ではそのパターンは年齢によって区切られそれが順番に並べられることで並列されていたが、ここでは運命の分岐によって並列されている。
また、主人公の誕生日が監督と同じであることから、この二つの作品とは違い監督自身の話としての色合いも強くなっている。そういう意味では『アマチュア』とも共通する。