ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』無力な存在


ロベール・ブレッソン監督による1966年作『バルタザールどこへ行く』について。

無力な存在としてのロバ

幸せそうな家庭があり、ほとんど結ばれてるような幼馴染がいて、大切に飼われているロバがいるという理想的な状況がある。しかし、その幼馴染は結ばれず、家庭は破産し農具が近代化することでロバは必要なくなる。既存の生活が時代や価値観の変化にのまれて完全に崩れていく。そして最後に最初の幸せだった頃が幻想の様に繰り返されて終わる。

幸せだった時を未だに見つつも、変化に対して傍観することしかできない無力な存在としてロバが配置されており、そのロバの瞳を見る映画であるような感覚もある。成長したマリーが幼馴染の父に「キスしてあげる」と言った後、その父が動いた後ろの暗闇からぬっとカメラを見つめるロバの姿が現れる。酔っ払いといる時やマリーに可愛がられてた時の幸せそうな姿に対して、その瞳の自暴自棄な暗黒さへの落差が非常に良い。

人の動きがその動き自体として強調されていて記号的になっているが、それがこの監督のいつもの洗練された感覚と違い、スラップスティックコメディ的な何か滑稽な印象がある。「酒はもう飲まないから」の直後に飲まれている酒やサーカスで喜ぶロバなど、コメディ的なシーンもある。

主役がロバであるという時点でかなり異様ではあるが、時代の変化により生まれた登場人物達の業による悲劇という物語に対して、そのコメディ的な演出やシーンの落差が常にあるので、非常に不思議な感覚の残る映画。社会性と滑稽さの謎のバランス感覚、そしてモンタージュの感覚含めてメドヴェドキンなどのソ連コメディ映画を連想した。

音の抜き差しが天才的な監督だと感じるが、特に『抵抗』での自転車の音など、異音の使い方でいくつもの発明をしている人だと思う。この映画でもロバの底から聞こえてくるような鳴き声、ジャズに爆竹という組み合わせなど最高でしかない。ポール・トーマス・アンダーソン『ブギーナイツ』での爆竹のシーンはきっとこの映画から来ているんだろうなと思う。

瞳、鳴き声、労働、ふわふわでかわいい、弱そうというロバの象徴的な要素をフルで活かしてる感覚がある。おもちゃのようにもてはやされる一方で自発的には何も出来なくて、周りが大人になってからはいないものとして扱われる。労働的な有用性がなくなれば酷く扱われて、けどその感情が理解されない悲痛さはあるという。だから酔っ払いはロバの写し鏡だったのかもしれない。

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