ジャック・ベッケル『偽れる装い』における装うことの持つ意味


ジャック・ベッケル(Jacques Becker)による1945年作『偽れる装い(Falbalas)』について。

装うことと映画監督

ファッションデザイナーであるフィリップは彼にとってのミューズを探し続けている。ミューズと見做した女性を見る時、フィリップは現実世界のその女性を見ているのではなく、その向こうに存在するイデアを幻視している。そして、フィリップは理想世界にあるその存在を現実のものとして捉えようとするかのように服をデザインする。フィリップが服を作っていくに従い、ミューズは現実化されていく。フィリップの作った服を着た女性はミューズへと変容されていき、そしてフィリップを愛するようになる。しかし、ミューズは彼にとって信仰対象のようなものであり、彼を愛し返した瞬間その女性はミューズではなくなってしまう。結果、フィリップはミューズとしての女性を見つけ、愛し返されれば捨てるということを繰り返す。フィリップは現実世界で女性と結ばれることはない。

フィリップは過去に恋してきた女性に向けてデザインした服をコレクションしている。フィリップは過去出会ってきた女性ではなく、それら女性達を介して過去出会ってきたミューズの思い出を保存していく。そして、フィリップは女性を介してミューズを見ているため、そのミューズが現実化されるまでその女性の名前を覚えることができない。

フィリップにとってのミューズはマネキンに象徴される。フィリップが過去ミューズとして見做してきた女性が画面に現れるとき、その女性はマネキンと共に現れる。そしてそのマネキンだけが明るく映される。現実世界に存在しないかのような違和感を持って映される。それに対して、共に映される女性達は暗く、感情を伴って映される。それはフィリップにとって彼女達がもはやミューズでなくなってしまったことを強調する。そして、マネキンは生命を持たない。ミューズは理想世界にのみ生きることができる存在であり、現実化されることで生命を失ってしまう。それは、過去フィリップにとってのミューズだったアンヌ=マリーの自死へと繋がっていく。

ダニエルの新居にフィリップが訪れるシーンにおいて、ダニエルが初めて登場する。ダニエルはフィリップに素材となる布を卸している人物であり、ここで二人は協業関係にあり友人となっている。その後に続くダニエルと、エレベーターで降りていくフィリップが会話するシーンは二人のその関係が分たれつつあることを示す。会話が終わりエレベーターが下の階に着いた時二人の関係は一度切れる。二人の会話はダニエルの結婚についてであり、エレベーターによって分たれていく中二人は大声で話す。まだその会話の残響が残っているタイミングで、その会話の当事者でありダニエルの婚約相手であるミシュリーヌが初めて画面に現れる。フィリップは新たなミューズとしてミシュリーヌを発見し、共に再びダニエルの新居へとエレベーターを上がっていく。ダニエルとフィリップが再び出会う時、二人の関係性はミシュリーヌを介したものへと生まれ変わっている。

フィリップは新たなミューズとしてのミシュリーヌに向けて服をデザインしていく。フィリップによって現実世界のミューズへと変容させられたミシュリーヌは段々とマネキンのような動き、姿へと変わっていく。初めは生き生きとしていたミシュリーヌの動きが段々と失われていき、姿勢を崩さなくなっていく。現実化されたミューズとなったミシュリーヌはフィリップに恋するようになるが、それによってミシュリーヌはミューズではなくなってしまう。そして、ミシュリーヌはフィリップを去りダニエルとの結婚を選ぶようになる。それによって、フィリップは再びミシュリーヌを求めるようになる。しかし、フィリップはそのミューズと現実世界で結ばれることはない。フィリップはマネキンに理想世界にあるミューズとしてのミシュリーヌを幻視する。そして、そのミューズと共に飛び降り、死ぬ。飛び降りる時の二人の姿はカーテン越しの影として映される。それは、フィリップが非現実世界でミューズと結ばれたことを象徴する。理想世界から現実世界に移すことでミューズは死ぬ。フィリップは死によって現実世界から理想世界へと移ることで遂に求めていたミューズと出会う。

フィリップとミシュリーヌは、針子たちによって見られゴシップされる存在となっている。そして針子たちは彼、彼女とコミュニケートすることができず、一方的に見ることしかできない存在となっている。さらに、彼女達はフィリップの従業員達への発表やミシュリーヌの試着の場、コレクションなど、彼や彼女が装っている=演じている時にのみフィリップとミシュリーヌの関係性を見ることができる。いわば、この映画においてフィリップとミシュリーヌは俳優であり、針子たちは観客としておかれている。

彼女達が見ているのはミシュリーヌを主役とした映画であり、ミシュリーヌ・ラフォリという役名は、その俳優であるミシュリーヌ・プレールとファーストネームが同じになっている。であれば、彼女を装う=演じさせる存在であるフィリップは同時に監督の立ち位置にもある。針子達に見えているのはコレクションの成功と、フィリップとマネキンの幸せそうな死に顔である。映画内観客である針子達が見ている映画は、フィリップがミシュリーヌと出会うことでコレクションを成功させ、その成功の幸福と共に死んだという筋書きのものである。彼女達にとってその死の理由は明らかにされない。それに対して、この映画の実際の観客にはその内幕が見せられ、その死の謎も明らかにされる。映画内観客は、監督が俳優をミューズ化することに成功し死んだという映画を見ている。それに対して、実際の観客は死がその失敗によるものだったことを知らされる。

コレクションの成功に至る物語を映画、針子達を観客だとすれば、この映画はその映画の内幕を明らかにするものとなっている。それによって、映画に表れているのとは別の現実が存在していることが明らかになる。映画の観客にとって監督は俳優を介して理想を映画に焼き付けることのできる存在に見えるが、実際その映画に映っているのは理想の似非であるマネキンとなっている。