反復と不可逆な変化 ー アンドレ・テシネ『証人たち』


アンドレ・テシネ(André Téchiné)による2007年作『証人たち(The Witnesses)』について。即興的に撮られたような映像とは対照的に、物語構造や人物設定は非常に構築的なものとなっている。

反復と不可逆な変化

この映画は、春から夏、秋から冬、マニュの死後の春から夏という3パートに分かれている。春から夏は幸福の時代としておかれていて、メディやアドリアン達のコミュニティにマニュが現れる。マニュはこのパートでは生を求め、性愛をもたらす存在となっている。秋から冬は戦争の時代としておかれていて、エイズが流行り始める。誰よりも早くエイズにかかったマニュは死を求め、エイズ=死の恐怖をもたらす存在へと反転する。アドリアンはマニュのことを「エロスの呪い」と呼ぶ。マニュは初めエロスであり、そして呪いへと反転する。

異性愛者、労働者階級出身で有色人種であるメディと、同性愛者、上流階級出身で白人であるアドリアンが対立的におかれている。そして、メディは常に愛する人といることを望むが、アドリアンは孤独を求める。メディによって、メディは生を愛する存在、アドリアンは死を愛する存在だといわれる。生を求める春から夏のマニュはメディを選び、死を求める秋から冬のマニュはアドリアンを選ぶ。メディはマニュから銃を奪い、その死を阻止する。アドリアンはマニュの望む死を与える。しかし、職業を見ればメディは警官として性愛を抑圧する存在であり、アドリアンは医者として人を生かす存在となっている。

マニュの姉は娼館に住んでおり、明示されないが、おそらく突然マニュが現れるまでは売春婦として働いていただろうことがわかる。そして、映画の最後にマニュの姉はオペラ歌手としてデビューする。娼館の顧客は労働者階級であり、その点でマニュの姉は労働者階級出身であるメディと結びつく。しかし、メディは同時に警官としてそれを抑圧する存在である。そして、オペラ歌手の顧客は上流階級であり、その点でアドリアンと結びつく。マニュの姉はマニュと同様に、映画内での反転によって二人を結びつける存在である。

マニュの訪れと同時に、メディの子供の誕生が描かれる。童話作家であるメディの妻にとって、それは作家としての自分の死を意味する。彼女は自分が子供を好きになれないことを知り、童話作家をやめる。マニュは春から夏には生をもたらし、秋から冬には死をもたらす存在だった。それに対して、メディの妻は春から夏に作家としての自分の死を経験する。マニュから自身の人生を語り録音したテープを渡されたことによって、そしてマニュの死と母との対話によって、意欲を取り戻し小説家として生き返り、同時に子供を受け入れるようになったように見える。なるというよりは、そういう考えの側による。いわば、図式上対局にある価値観の間に行く。そして、異性愛者であり、マッチョで父親然としたメディもまた、マニュとの出会いによってマージナルな存在となる。

労働者階級出身であり親として模範的に動くメディと、上流階級出身であり子供を受け入れることのできないメディの妻もまた、反転した存在として置かれている。その妻、アドリアンを反転した存在がメディであり、だからこそアドリアンとメディの妻は友人となっている。メディとその妻は、パラレルに進む子供の誕生、マニュの訪れというストーリーラインによって互いにその図式的な属性からズレていき、それによって繋がるようになる。

最初の春から夏においては暖色が中心となっており、有機的、開放的なニュアンスをもつ。映像としてもカットや人物の動きが多く、躁的な映像となっている。それに対して、秋から冬においては寒色が中心となっており無機的で閉塞的。そして映像のリズムや人々の動きも落ち着いたものになっていく。その究極が死の直前における、マニュの殆ど見えない視界、そしてそこに広がる真っ白な光となっている。そして、2回目の春から夏においては暖色などのルールは繰り返されつつも、カメラ、人物の動きだけは抑えたものとなっている。それは生をもたらす存在であったマニュがいないからであり、マニュの死、そしてエイズを登場人物達が経験したからとなっている。

この物語は夏から冬、冬から夏という2回の反転を経て、2回目の夏を迎えて終わる。アドリアンはマニュのような存在と出会い、1回目の夏と同じシチュエーションを反復して終わる。しかし、登場人物達はエイズの流行とそれに伴う死を経験している。そして、アドリアンの恋人はフランスから発つことが決まっていて、4人の乗る船は売られることが決まっている。一番大きな違いは、対立的な属性をもったメディとアドリアンを繋ぐ存在がいなくなっていることである。繰り返しのようでいて、人々には劇中の出来事により不可逆な変化がもたらされている。そして、その変化は終わりへと向かう雰囲気を持っている。

アドリアンはメディの子への命名を拒否していた。アドリアンはその理由を、同性愛者である自分が異性愛者とは異なる価値観を持っているからだと話す。メディの妻は自分が子供を持つことを受け入れることができなかった。しかし、ラストシーンでは登場人物がその子供の誕生日を祝い、アドリアンがその子供の名前をつけていることが明らかになる。子供の誕生、マニュの死は対照的な存在であるメディとその妻を結びつけていた。終わりへと向かっていく雰囲気の中で、メディとアドリアンという対立する価値観、属性を持つ二人を繋げる存在がこの先の未来に生まれるだろうこともまた示される。

感想

上映後の解説で、アンドレ・テシネがフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨン、モーリス・ピアラと同じ時期にデビューしたポスト・ヌーヴェルヴァーグの監督であり、さらにカイエの批評家出身であること、ヌーヴェルヴァーグ後にフランス映画では自然主義に向かう動きがあり、その極がモーリス・ピアラだったこと、アンドレ・テシネはそれに対立するようにフィクショナルな方向性に向かう監督だったという話があった。この映画は、映像だけでなく、その構築的な人物造形や物語によっても現実から遊離したような感覚を持っている。また、モーリス・ピアラにおける反復は反復までにあった出来事・人物の変化を無効化し、そこから逃れられない感覚を残す。それに対して、この映画は反復するものの、不可逆的な変化は確実に存在していてその反復から逃れる道筋も示される。そういう点でも二人は対照的に感じられる。