映画によって捉えられた虚構の死 ー ダニエル・シュミット『書かれた顔』

ダニエル・シュミット(Daniel Schmid)による1995年作『書かれた顔(The Written Face)』について。

坂東玉三郎が歌舞伎の舞台裏へと入っていく、その舞台で演じている人物もまた玉三郎である。ここから舞台を終えた玉三郎の白塗りが落とされるまで、この映画の冒頭は溝口健二の残菊物語を模したものとなっている。それはあたかも、玉三郎が歌舞伎の世界に入り今の姿へと至るまで、残菊物語に重ねれば菊之助が父親のようになるまでを同じシークエンスの中で映し出したもののように見える。

玉三郎は女形を演じる男性であり、玉三郎は女性の身振りを客観的に観察しそれを体得することでそこに近づこうとしたと語る。タイトルの書かれた顔とは、玉三郎の上に白塗りされた女性の顔のことだ。そして、杉村春子は映画的な女性像と離れた人物だったからこそ、その女性像を客観的に見ることができ、あのような女優へとなったのではないかと語る。杉村春子が芸者を演じている時の姿が玉三郎と重ねられる。

ではそのように演劇を突き詰めた人が辿り着くのはどこか、玉三郎は、ある空間が与えられた時にその空間を一つの宇宙へと変容させてしまうような演劇的人間だと言う。この映画ではそれは杉村春子、玉三郎であり、舞踏家である武原はんであり大野一雄である。ここで、武原はんのみが書かれた顔を持たない、つまり演技と自分の間に距離のない人物となっている。武原はんは感情のまま、心のまま踊る。玉三郎や杉村春子とは真逆の方法を取っている。

この映画に現れる演劇的人間は玉三郎を除いて全員が1900年代の生まれであり、この映画が撮られたときには90歳を越えている。そして、杉村春子は21世紀には映画がたそがれにあるだろうことを話す。歌舞伎、芸者、映画(芸者や歌舞伎のあった時代の映画)、そして演劇的人間は失われつつあり、黄昏時にある。玉三郎はゲームをする子供を誘い、自身の舞台を見させるがその子供は興味を持っているようには見えない。玉三郎は、その失われつつあるものを一人継承した人間となっている。

「黄昏時の芸者物語」という劇中劇が挟まれる。これは、人のいない屋形船で男二人が玉三郎の演じる芸者を奪い合うというものだ。芸者は船から、大野一雄が東京の街を背景に踊るのを幻視し、帰宅後、呼び出してきた片方の男から隠れ、そのまま姿を消す。白く塗った顔で踊る大野一雄の踊る姿は、玉三郎が演劇的人間として目指す姿だろう。この物語は、その姿がなれない姿、失われてしまった姿であるようにも、そうなろうとして芸者が今の場所を抜け出したようにも見える。玉三郎はこの劇中劇において、あり得たかもしれない理想の自身の踊る姿を幻として見る。

この映画は、玉三郎が歌舞伎の世界に入り、書かれた顔を通して演劇的人間になるまでについての映画である。玉三郎の言う演劇的人間達によって空間を一つの宇宙へと変容させられた様がこの映画では捉えられ続ける。そして玉三郎の演技がそれら過去の演者達の演技と重ねられていく。しかし、それらは失われていくものでもあり、ラストの玉三郎の舞台上での死、つまり書かれた顔の死はその終わりを象徴したものだ。そして、それは冒頭におかれた演技の続きであり、玉三郎が演劇的人間になるまで、そしてそれら演劇的人間達による演技はその死の間に展開される。この映画は、その死の瞬間を捉えたもののように感じられる。

映画内の語りが、残菊物語のオマージュや現実的にあり得ない舞台設定を含んだフィクション、ドキュメンタリー的な撮り方をしたインタビュー、さらに劇中劇を組み合わせた形で行われるため、虚実の判断がつかない。あらゆる演技の撮り方が素晴らしく、美しい瞬間の集積のような映画でもある。虚実の境界のわからない語りだからこそ、この映画内で現れる美しい瞬間が本当は存在しない虚構のようにも思えてくる。失われつつあるものを、そもそもそれが存在したようにもしなかったようにも見えるような揺らいだ視線から捉える感覚。

観賞後のトークイベントで、この映画はダニエルシュミットがパートナーを亡くした後に撮ったものだということを知った。

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