二つの戦前 / 演じること ー ジャン・グレミヨン『不思議なヴィクトル氏』


ジャン・グレミヨン(Jean Grémillon)による1938年作『不思議なヴィクトル氏(L'étrange Monsieur Victor)』について。

ヴィクトルがコメディアンととして登場するが、画面は何かぼやけて閉塞感に満ちている。そこに、殺人のニュースと明らかに異様な雰囲気をまとった3人の男が現れる。ヴィクトルに暗い何かが迫るように見える中、ヴィクトルが悪党へ、3人の男がコメディアンへと反転する。この冒頭から本当に良く、コメディとノアールの間を揺れ動くような非常に不安定な映画となっている。

ヴィクトルは善と悪の二面を持っているというよりも、両方が混濁して存在しているような存在として置かれている。それとは対照的に二面的な存在、内面に悪を持ち表面上は庶民を演じている存在としておかれているのはヴァスティアンの息子となっている。この映画の始点は、ヴァスティアンの息子がなぜか父親の職業道具である桐を糸に繋げて歩いていたところにある。冒頭で「何して遊んでいるの?」というセリフをかけられた時点で、既に彼は錐で遊んでいたことが明らかになる。同監督の『曳き船』において船は戦争と結びつくモチーフだった。ヴァスティアンの息子は二度船を欲しがり、常に一番大きな船を要求する。そう考えれば、この映画でもまた船が二度の大戦に結び付けられていると考えることができるように思う。

船が大戦の比喩ならば、その船を与えるのは商人であるヴィクトルとその息子である。前半で彼に船を譲渡するのは善悪を同時に併せ持ったヴィクトルであり、喜びながら渡す。犯罪によって蓄積された資本がヴァスティアンの息子に提供される。後半で譲渡するのは、善として描かれると同時に親に従順であるヴィクトルの息子であり、ヴァスティアンの息子の要求に従うように渡す。そして、無実の罪で7年間強制労働させられたヴィクトルもまた、善であり体制に従順な存在へと変化している。そして、ヴァスティアンは息子の裏の顔を知り、見捨てる。ヴァスティアンの息子は物語を駆動する存在でありその展開によって大きく被害を受けた存在でありつつも、映画を通して物語の主軸となる人物達からずっと見過ごされているように見える。ヴァスティアンの息子はマクガフィンとしておかれており、観客の注意を惹きつけるのはヴァスティアンの息子ではなく、彼を起点としておこる出来事である。彼は観客からも見落とされるべき存在として映されている。

親世代を描く前半に続き、7年という期間を間に挟んで後半に続く。前半においては画面はわかりやすく閉塞感を持ち、ぼやけたグレーで埋められている。そして、時にその人々が庶民的、コメディ的に映される。その画面に象徴されるように、前半で人々は全員が何か暗いものを持っているような存在として映される。そして、この港町にこの先確実に何か悪いことが起きそうな予感を残す。それは船というアイテムによって第一次世界大戦へと繋がっていっただろうことが察される。前半の終わりにおいて、本来の犯人であるヴィクトルは町に紛れ込んだままとなっている。

それに対して、子世代と、7年間という期間を経て大きく変化した親世代を描く後半において画面は明るい。そして、明るい画面の中で親世代の全員が善き人間として振る舞う。そして、その明るさの中に人々や町の抱える暗さが映る瞬間がある。その明るい画面の中に庶民であると同時に悪党である存在がまぎれこんでいることが示される。後半において最も鮮烈なのは、警官が自分が過去捕まえ逃した人物が町を歩いているのを見る一瞬の主観のショットである。全員が庶民として町に紛れ込んだ悪党である可能性を持つように描かれるが、その中でもヴィクトルとヴァスティアンは明示的にそのような存在として言及される。そして、ヴァスティアンの息子はヴィクトルの次の世代として、よりはっきりとした悪党としておかれている。

後半において、ヴィクトルやヴァスティアンなど親世代の人物はあからさまに善い人物を演じている。そしてそれは各人物が善と悪のはっきりした二面を持っているように描かれるのではなく、もしかしたら何か暗いものを持っているのかもしれないという描かれ方となっている。後半におけるその究極がヴァスティアンだろう。そして、殆どの人がわかりやすく善き庶民を演じる中で、ヴァスティアンの息子の新しい父親であるロベールだけがわかりやすく悪党である。彼だけが演じない。ヴァスティアンとロベールは、後半において対照的な存在となっている。

そして、後半でヴィクトルがわかりやすい善人からわかりやすい悪人へと反転した瞬間、ロベールは善人へと反転する。そのロベールの内心から漏れ出た良心のような告発により事件は解決に向かう。しかし、告発の瞬間、舞台が切り替わりクライマックス的でコメディ的な音楽が流れ出す。コメディとノアールの間を揺れ動いていた画面・演出が一気にコメディ一辺倒に変化する。ロベールの告発の演技もまた、演じられていることを隠さないような虚構性の高いものとなっている。それは、ヴィクトルのわざとらしいコメディアンとしての演技と反響している。その後物語はサスペンスのテンプレをなぞるように綺麗に収束する。いわば、ロベールの告発以降の展開はそれがフィクションであり現実を捻じ曲げたものであることを明示するように撮られている。

前半が第一次大戦に向かう時代を描いたものなら、後半はこの映画の製作当時の、第二次大戦へと向かう時代を描いているんだろうと思う。そして、この映画はその雰囲気を無理矢理コメディへと変容し、それがフィクション的な操作であることを明示しつつも、あたかもその後の大戦が起こらないかのように終わらせる。しかし、それと同時に、犯罪者であるヴィクトルが有罪になったかどうかはぼかされたまま終わる。そして、そもそも巨大な船を持った子供は見過ごされたままである。フィクションとして現実を捻じ曲げたこの映画内世界の先であっても、大戦が起きるような予感が残されている。

第一次大戦前を描いただろう前半では人々は明らかに暗い何かに向かっていく雰囲気を自覚しつつもかろうじて庶民を演じることができているように見える。第二次大戦前を描いただろう後半では雰囲気も人々も表面上はわざとらしいほど善的で明るい。表面上は悪党であるロベールのみがその明るさを疑う。この映画はその中で唯一演じていないロベールの、その漏れ出る善性に賭けているように感じる。しかし、それが何かを解決することを保証しない。そして、表面上は善き人を演じている人々の中に紛れ込んだ悪党としてヴァスティアンの息子がおり、彼は人々から見過ごされた存在としておかれている。