新海誠監督『天気の子』について。
キャッチャーに憧れる主人公
最初の方、ネカフェに泊まるシーンにおいて帆高が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹翻訳の方)を読んでいることがわかります。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は学校からドロップアウトし主人公ホールデンが社会にあるあらゆるものを否定しながら街を彷徨う話であり、その点でまずその帆高の状況と一致します。
そして物語の終盤、ドロップアウトした身であるホールデンは、自分はライ麦畑の崖から落ちそう(=社会からドロップアウトしそう)になっている人をキャッチする存在、ライ麦畑のキャッチャーになりたいと語ります。
ここで示唆されるように、その後帆高は身体を売ろうとする陽菜を、風俗を社会の外側として、そして陽菜を社会からドロップアウトしそうになっている人として手をとって逃げる、キャッチします。そして、スカウト(ピンプ)二人に対して銃を撃ちます。
つまり、主人公帆高は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデンを状況的にも考え方的にもそのままなぞった存在として物語が始まります。
人柱としてのヒロイン
しかし、帆高はそのままホールデンをなぞるのではなく、一緒に「お天気ビジネス」をする、つまり社会からドロップアウトするのではなく社会のルールに乗っとった上でお金を稼ぐことを陽菜に提案します。
しかし、陽菜は両親がおらず中学生ながら小学生の弟と貧しい暮らしをしていて、児童相談所の人のセリフにもあるように、側から見れば "社会的に正しい" と言われるような、親がいてかつ最低限の収入を得ることのできるような家族構造には沿っていません。社会の外側と内側の間ギリギリに生きている存在として描かれます。
そして、映画の中盤で明かされるように、陽菜は人柱として東京の天気、つまり東京に住む人々の生活のために自分を犠牲にしなければいけないという役割も担っています。
そのため、陽菜は環境問題と格差問題という資本主義社会の帰結である二つの問題を担う存在となっています。資本主義社会から生まれた歪みを負わされる貧困層・自然環境どちらにも属する立場になっています。
つまり、ヒロインである陽菜は気候変動のみでなく、気候変動含めた資本主義社会における人柱としての役割を担っています。
こちらは冒頭に出てくるバニラのトラックが象徴しているように思います。社会の外側(に見える領域)で高収入を得る必要がある存在として陽菜は描かれています。
ピンプ化する主人公
しかし、お天気ビジネスは陽菜の身体の犠牲の対価としてお金を得るものでした。陽菜がいなくなることで、帆高は自分が陽菜の身体を売っていたこと、自分が拒否した風俗のスカウトと全く同じことをしていたことに気づきます。
陽菜の弟凪の帆高に対する「全部お前のせいだ」というセリフが表すように、ドロップアウトを防ぐためにビジネスをしたつもりが、そのせいで陽菜がドロップアウトすることになります。そして、帆高自身もドロップアウトしたものとして警察に連れて行かれます。
そして、今の社会が搾取を前提とする以上、社会に乗っ取った上で生きていてもその搾取からは逃れられないことに気づきます。
搾取構造の否定
帆高をアルバイトとして受け入れ居場所を与えた圭介は、帆高と同じくドロップアウトした後に社会を受け入れた人として、帆高の合わせ鏡のように描かれています。一方で、警察や児童相談所は社会の内側のルールの象徴として描かれます。
その圭介と警察に追い込まれた後、帆高はそれを拒否し銃を撃ち、陽菜のいる空へ助けに行きます。
そこで、陽菜に会った帆高は社会よりも陽菜を、つまり誰かの犠牲を前提とする今の社会・その搾取構造を否定し、犠牲となる側を救うことを選びます。
そして、帆高は陽菜をもう一度キャッチし、同じく風俗をケースとして労働を描いた映画である「千と千尋の神隠し」のラストシーンをオマージュしたであろうシーンに移ります。
水没した東京とその後
この帆高の選択により、人柱としての陽菜のみが担っていた気候変動は東京の全体で担われるものになり、東京は続く雨により一部を除いて水没します。
ここで、おばあちゃんのセリフにもあるように東京は江戸時代以前は元々大部分が海でした。江戸時代に埋め立てを背景に城下町として商業が発展し、武士よりも商人が力を持つようになり今に至ります。そして、交通手段としては水路がよく使われていました。
実際に映画内で電車ではなく水路が使われているようになっていることからも、東京は江戸時代以前、つまり商業以前の形に戻っています。つまり、帆高の選択により、社会の歪みを全員で負うことになり、資本主義社会は一度リセットされた形になります。
そして、このように否定して終わりではなく、水没後の人々の変わらない生活の描写があることや、帆高が大学で(おそらく)地質学系の学部を選んでいることから、搾取構造を否定し、歪みを全員で受け入れた上でもう一度やり直そうといった結論だと読み取れる形で映画は終わります。
二度のキャッチと銃
この映画では、帆高が二度銃を撃ちます。一度目は陽菜が風俗嬢になろうとするのを助けた後、二度目は陽菜が人柱となるのを防ぎに行くところです。つまり、どちらの発砲もキャッチと密接に関わります。
銃の持つ意味に関しては、その対象に対する拒否だと考えているのですが、この二度の発砲において帆高の拒否の対象は変わります。そして、同じくキャッチの意味も変わります。
一度目の発砲は「社会の外側」に対する拒否で、一度目のキャッチは「社会の外側から社会の内側に連れ戻す」という意味がありました。そして、それは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で提示されたキャッチと同じものでした。
一方で、二度目の発砲は、一度搾取をする側となってしまい搾取構造に気づいた主人公が、その社会を受け入れた圭介、そして社会のルールとしての立ち位置である警察に対するものになっています。
そして、二度目のキャッチはその搾取構造の犠牲となった陽菜を今の社会からキャッチするものになっています。
そのため、二度目の発砲は「(搾取構造が前提となっている)今の社会の内側」に対する拒否で、二度目のキャッチは「今の社会から(搾取構造の拒否された)新しい社会に連れて行く」という、最初のホールデン的なキャッチとは違う意味を持っています。
ホールデンに憧れる存在として始まった主人公ですが、ドロップアウトしそうな人をキャッチしたとしても今の社会では搾取構造からは逃れられない、だからその搾取構造を拒否し新しい社会をやり直そうという選択を行う人物像に映画を通して変容し、終わります。