ホウ・シャオシェン監督による1985年作『冬冬の夏休み』、そしてホウ・シャオシェンにおける「見ること=映画」という構造について。
映画となる夏休み
子供の特徴として、友達間以外では状況に対して何もできないということがある。この映画ではそれがルールとして設定される。
何かが起きた時には年上の人々に言うしかないし、それが聞かれなかった時は他の人に当たるしかない。そして、基本的には歩き回って周りで起こってることを見ることしかできない。何か起きた時にそれに対して何かすることはできない。
他人が何かしてくれるのを期待する以外の選択肢がない。一方で、他人に何かを頼むということは、その頼んだ人の行動によって未知の結果を生む。そして、それにより起きた結果への後悔は頼んだ自分にもくる。
状況に対してそれを目撃する以外何もできないのは、冬冬の母の病気に対しては祖父母も同じである。クライマックスでは妹、冬冬、祖父母それぞれが見る / 待つしかないという状況に置かれ、その状況が重なることで静かな緊張感が生まれる。
これは映画を見るという行為と同じで、観客は映画内での出来事に関してはそれを見ること、映画内の登場人物がそれに何かしてくれることを待つことしかできない。それによって、冬冬達の見ている景色が映画となる。そして、夏休みを経験することで、妹、冬冬それぞれが見ているもの=映画は違うものになっていることがわかる。
『風櫃(フンクイ)の少年』は最高のモラトリアム映画だと思ったけどこれは最高の夏休み映画だ。
ホウ・シャオシェンにおける「見ること=映画」
『風櫃(フンクイ)の少年』は少年たちにとって日常、将来への夢想や過去についての記憶が映画のように見えているという映画だった。そして、それが繰り返し現れる映画というモチーフ、そしてフレームによって区切られた日常の景色によって示されていた。同じ映画を一緒に見ていたはずの仲間達とも、段々と見える景色が変わっていく=違う映画を見るようになっていく。そして、主人公達は大人となることで、主人公であることを辞め映画の背景に消えていく。
ここでは主人公が青年となっているため、見えるもの全てが映画である『冬冬の夏休み』とは異なり、映画となるのは一部の瞬間のみである。この二作を通して、成長していくにつれ映画だった日常が映画でなくなっていくような感覚がある。
そして、『童年往事 / 時の流れ』は主人公にとって映画のように見えていた景色が映画として再演される映画になっている。この映画は大人になった主人公が自身の少年〜青年期を回顧する映画であり、『風櫃(フンクイ)の少年』『冬冬の夏休み』と続いた物語を閉じるような映画となっている。
この三作全てで何かを見ることが映画を見ることと同じように扱われるのは、ホウ・シャオシェンにとって世界が映画のように見えていたからなんだと感じる。